1941年の創業から80年以上、海藻由来素材「アルギン酸」を軸に事業を展開してきた株式会社キミカ。食品、工業、医療と用途を広げながら、現在では世界市場でも独自の存在感を放つ企業へと成長している。だが、その歩みは決して順風満帆ではなかった。戦時下での創業、戦後の激しい競争、食品添加物バッシング、海外メーカーとの価格競争――。幾度もの逆風を受けながらも、同社はなぜ生き残ることができたのか。その背景には、「ベスト」を目指す思想と、“1ユーザー1スペック”を徹底する顧客起点のものづくりがあった。代表取締役社長・笠原文善氏に、キミカが築いてきた独自戦略について聞いた。
■Interviewee
株式会社キミカ 代表取締役社長 薬学博士 笠原 文善 氏
“もったいない”から始まった海藻ビジネス
キミカの原点は、戦時中にまで遡る。
笠原氏によれば、創業者である笠原文雄氏(現社長の父親)が復員後、療養先の千葉県の海岸で、大量の海藻が打ち上げられている光景を目にしたことが始まりだったという。
「食糧難の時代なのに、誰も食べないまま腐っていく。『これはもったいない』という思いから始まったんです」
時代は太平洋戦争前夜。日本は経済封鎖によって海外から工業原料を輸入できず、国内資源の活用が急務となっていた。そこで海藻からヨウ素、カリウム、そして“ぬめり成分”であるアルギン酸を抽出し、工業利用する取り組みが始まった。
同社は創業後まもなく軍需工場指定を受け、終戦後は平和産業としてアルギン酸事業へ再スタートを切ることになる。
さらに戦後、GHQが「日本の産業復興には海洋資源を活用した産業が有効」と判断し、キミカには技術公開命令が下された。すると、国内の大手化学メーカーや大手飲料メーカーを含む18社が一斉に市場へ参入したという。
「GHQがアメリカで全部買ってくれると思っていたら、『提案しただけ。ビジネスは自分たちで考えろ』という話だった」
激しいサバイバル競争の末、業界は徐々に淘汰され、現在ではキミカが国内で唯一のアルギン酸メーカーとして残る“オンリーワン”の状態へと回帰した。
アイスクリーム市場で築いた“先行優位”
戦後、キミカが最初に用途を見いだしたのは、繊維用の「のり(糊)」だった。
当時、澱粉系の糊は「栄養があるものを工業用途に使うべきではない」とされ、カロリーを持たないアルギン酸が、その代替素材として採用されたのだ。
次の転機となったのが、食品分野──とりわけアイスクリームだった。アルギン酸は、アイスクリームの安定剤として高い効果を発揮する。
「アイスクリームは冷たいけれど、少し溶けかけた状態が一番おいしい。アルギン酸を使うと、ゲルネットワークが泡を逃がさず、クリーミーな状態を維持できるんです」
この用途をいち早く確立したことが、キミカの強みとなった。国内の大手乳業メーカーが次々に採用し、同社は食品市場で確固たるポジションを築いていく。
一方で、当時のアイスクリームは夏季限定商品であり、冬になると需要が急減するため資金繰りには常に苦労したという。
さらに追い打ちをかけたのが、1960年代末に起きた人工甘味料のいわゆる“チクロショック”だった。
人工甘味料「チクロ」に発がん性を示すデータが発表されたことなどを機に、日本では「食品添加物=危険」という世論が急速に拡大。食品メーカーは“添加物表示”を避けるようになり、安全性が認められていたアルギン酸も敬遠され始めた。
キミカが強みとしていた食品市場が一気に逆風へ変わり、同業他社からは「次に潰れるのはキミカだ」とまで言われたという。
“ベスト”を目指す思想と1,000超の仕様
そんな危機を乗り越える中で、キミカは独自の戦略を磨いていく。
笠原氏が掲げたのが、「Best in the world」という考え方だった。
「海外の巨大メーカーと真正面から戦ったら吹き飛ばされる。トップにはなれなくても“ベスト”にはなれるはずだ」
海外メーカーは数種類の標準スペックから選ばせるスタイルが主流だったが、キミカは顧客ごとに仕様を調整する“1ユーザー1スペック”へ舵を切る。
「お客様ごとに、使いやすいように規格を変える。粘度、粒度、ゲル化のスピードや強度まで全部調整するんです」
結果として、同社の製品ラインアップは約1,000種類にのぼるまで拡大した。
一見すると手間とコストがかかる戦略だが、後にこれが強力な参入障壁になる。
「他社が安い製品で切り替えようとしても、溶け方やパフォーマンスが違うため置き換えられない。後から気づいたんですが、これって最高のバリアだったんですよ」
“相談される会社”が市場を押さえる
笠原氏は、「一番強い営業は、困りごとの相談を受けることだ」と語る。